日本キリスト教団せっつさんだきょうかい摂津三田教会

HISTORY教会のあゆみ

1874年4月19日、摂津第一基督公会(現在の神戸教会)が設立され、
続いて5月には摂津第二基督公会(現在の大阪教会)が設立され、
これに続くかたちで摂津第三基督公会として現在の摂津三田教会は誕生しました。

三田は旧城下町ですが、決して都市部ではない山間の地に、神戸や大阪に次いで教会が設けられたということには、
旧三田藩最後の藩主・九鬼隆義の影響が非常に大きかったと言えます。

1872年

三田藩とキリスト教の関係は1872年夏に始まります。

もともと、当時としては異例ともいえるほど西洋文化に興味と関心の高かった九鬼隆義は、有馬の地に避暑に来ていたデーヴィス宣教師を訪ねて、毎日のようにキリスト教や聖書、また西洋の科学・文化・風習などについて学びました。そしてそれを三田における医療や教育に積極的に取り入れようと考えていました。

そのためデーヴィス宣教師から学ぶところが多くあったのです。

1873年

1873年の夏、デーヴィスは三田に2週間滞在して、日々、青年たち20数名に聖書の講義をし、また女性宣教師だったJ.E.ダッドレーは毎日午後に女性たち向けに聖書の講義をしました。

また、三田の医師たちは、宣教師であり医師でもあったJ.C.べリーから西洋医学の教えと聖書の学びを受けることになっていったのです。

1874年

1874年4月19日、摂津第一基督公会(現在の神戸教会)が設立され、続いて5月には摂津第二基督公会(現在の大阪教会)が設立され、これに続くかたちで摂津第三基督公会として現在の摂津三田教会は誕生しました。

1875年

こうした日本へのプロテスタント宣教における最初期の宣教師たちの熱心な活動が実を結び、男女16名の信者が洗礼を受け、1875年7月27日、旧三田藩九鬼家大広間にて摂津第三公会が設立されました。当時は、旧三田藩の陣屋跡を教会としていました。

1877年

1877年9月7日には教会が建築され、献堂式が執り行われました。場所は三田本町上、この日の演説者はデーヴィス、澤山保羅、グリーンの3名でした。

このとき司会を務めたのは同志社の創立者である新島襄です。新島は聖書に触れたことで感化され、これを自由に宣べ伝えている国に憧れ、国禁を犯してまで渡米して神学を学び、洗礼を受け、やがて日本におけるキリスト教教育の必要性を感じて帰国、訴え続けていた人物です。プロテスタント教会の中でも同じ系統にあった摂津三田教会の設立には感慨深いものがあったでしょう。なお、摂津第三公会設立の4か月後の1875年11月に新島は同志社を立ち上げています。

1877年に建築された教会

1957年

1957年には「宣教」と「地域社会への奉仕」のため三田の地では初めての保育園を教会附属として開設しました。
定員60名の認可保育園です。三田市の旧市街地にあり、自然豊かな場所に立地しています。
キリスト教保育に基づいて、自由、自律(立)性、ひとりひとりのありのままを大切にした保育を行っています。
現在に至るまで、毎週金曜日には0~5歳までの園児が一堂に会して共に礼拝を守っています。

1957年保育園創立日

1967年

1967年4月に2代目の教会が建てられました。

以前の教会は、プロテスタント教会としては、日本で5番目に建設された歴史的にも価値がある建物で「摂津三田教会会堂保存会」が、三田町長を会長に結成されました。しかし、その後、三田市制施行、都市計画に伴う道路工事により、現在の屋敷町へ移転を余儀なくされ、残念ながら旧教会の保存はできませんでした。

1967年に建てられた2代目の教会

1988年

教会員の葬儀を行う独立した教会が欲しいとの祈りの中で、1988年2月に3代目の教会が献堂されました。

1988年に建てられた3代目の教会

1995年

1995年に再び三田市による都市計画事業のため、4代目となる現在の教会が建て替えられました。阪神・淡路大震災後の7月に完成、9月に献堂しました。

1995年に建てられた現在の教会

現在

古い歴史を持つ教会ですが、農業と商業中心の三田の地から多くの人々が、特に開港で発展が見込まれていた神戸へと離れていきました。
このため教会は設立時の教勢を維持し続けることができず、幾度かの変動を繰り返しながら現在に至ります。
教会では、サマリア会(高齢者支援活動および勉強会)やチャペルコンサートなどの勉強会や集会を随時開催しています。

2024年イースター